大川市における、木工、指物の起こりは古く、今から480年以上前の室町時代後期とされている…。
時は戦国時代に、さかのぼりますが、この戦国の世で、戦に疲れはてていた一人の武将がいました。幾人もの人を切捨て、戦いを続けている事に疑問を抱き、突然出家して、仏門を叩き、修業の身となり、逃げる様に苦行の旅に出ます…。
追手を交わしながらも、辿り着いたのは筑後大川国でした。この藩境の港町は、九州最大の筑後川(筑紫次郎と呼ばれていた)の川下にあたり、有明海にそそがれた立地にあり、大きな港の交易が盛んで、たいそう繁盛しておったそうだ…。
また、度重なるこの筑紫次郎の氾濫にて、洪水に襲われ、上流から多くの木材が流れ着き人々を苦しめていました。
旅の貧しい僧は、この地に願連寺という御寺を築き上げ、民人の上に立ち、説法を説いていったのである…。
又、この地は川下から海洋に出やすく、海洋貿易が盛んなため、多くの木造船が作られていた。木材は川上の九州の山々から、筏を組んで流していた。
その為、この筑後大川国には多くの木材が集まり、木材の大集積地となり、沢山の船大工の職人達が、腕を競っていた。
この様な環境の中、願連寺の和尚は、御弟子さん達に指物の修業を命じ箱物や建具を作り始めた。この和尚こそが、大川の木工の祖とされる榎津久米之助である…。
大川の家具作りの始まりである。
では、桐箪笥の歴史を考えてみよう。
先ずは、この時代の背景を推測すると、一般的庶民は、衣類はあまり持っていなかったと考えられる為に、恐らく着たきりの人々が多く、たまに洗濯をする位で、着物の収納の箪笥は未だ無かったと考えられます。
富裕層も竹で作られた葛籠みたいな箱に入れていたと考えています…。先ずは男性の為の道具として、現在残っている資料から推測すると、桐箱や文机や桐の刀箪笥等が作られていたと考えられる。
男性上位の筑後大川国においては、女性の為にはせいぜい、素朴な裁縫台位だったのである。
女性の為の着物を収納する桐箪笥が登場するためには、まだまだ時を有するのである…。
一般論として、箪笥と呼ばれる家具が産まれたのは、明治維新の後からと云われているにだが、大川の桐箪笥の歴史調査の中で、大川の鐘ケ江氏が受け継いでいた桐箪笥には、嘉永6年製作の刻印があり、現物を大川市が九州産業大学に依頼して調査を行った上で、大川市が保管しています…。
それと箪笥という漢字には、竹冠があり語源を推測すると、竹の箱(葛籠)から進歩した物であると考えられる。
そこで大川の桐箪笥の歴史的、大川独自の技法と呼び名があり、他の産地や東京箪笥には見られない技法で、前蟻組みと後蟻組があります。この技法は大川の桐箪笥職人ならば皆が知っている呼び名であります。
又、近隣に金具職人がいて、田口地区にて箪笥等の金具類が打たれていたのである…。
この様、大川の桐箪笥は、他産地にはない独自の呼び名が、一間箪笥を基本に八合物、七合物、六合五合物といった呼び名が在ることから、他の産地とは接点が無くして発祥して進化した過程があると考えられます。大正時代になると、一間箪笥に漆が塗られ、蒔絵を施した、豪華な箪笥も大川独自の物と考えられます。
その頃に下り物と言った東京箪笥が下ってきたと記載がありますが、作り方が違うのと棚板が薄く仕上げてあり、大川の命目ある引き出しとは全然違う物であったと伝えられています…。
大川の桐箪笥は、筑後川の筏によって川を下っていたのですが、杉と桐の木が多く、この材を主に使い、前桐箪笥、3方桐、箱桐、総桐とランクが分かれていたのである。
一番大事なのは、九州は特に高温多湿の為に、どうしても、着物を桐箪笥に仕舞わないと、カビが生えてくるといった必要性から、桐箪笥は生まれたのである。