大川家具の歴史[昭和時代]No.3

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ーーーー戦時中の大川ーーー
『大川で木製飛行機の製作』
          [品質日本一]軍の評価
     ーー練習機『白菊』の主翼製作ーー
大川で戦闘機の木製飛行機を製作していたのは、大川市酒見中原にあった「旭航空機製作所」は1943年(昭18年)12月に設立された。
   場所は、中原公民館の近くにあり、巨大な平屋建物が密集していた。
地元の材木商が、戦況報告会で飛行機が足りない事を知り、資本を投じて設立した……。
   当時は成人男性の軍需工場への徴用が多く、大川に木工飛行機の工場を作る事は大川の木工技術者の「徴用逃れ」との側面もあったとみられる。
    この工場で作られた部品(主翼と尾翼)は春日市の九州飛行機製作所にて機体を組立てていた。
   1944年の3月に生産を初めて、わずか15日の3月15日には初号機に用いる主翼等が完成した……。

大川家具の歴史[昭和時代]No.2

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筑後川昇開橋と佐賀線[1935年(昭和10年)]に開通

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ーーー前項からの続きーーー
    大正時代から昭和の戦前迄には桐箪笥の職人達と、雑木箪笥(楠や欅、栗、桜、楢、セン壇等の広葉樹)の職人達が、手作りで製作をしていました……。
   その職人の六割以上は桐箪笥の製作に腕を競いあっていました。
    嫁入り道具は箪笥長持ち唄と一緒に、多くの花嫁さんが、桐箪笥や長持ちと共に大切な婚礼道具として嫁入り先に運ばれました。大川の婚礼家具はこんな素朴な習慣から生まれたのです。
  ーーー筑後川昇開橋の完成ーーー
      [1935年(昭和10年)]開通
    東洋一と言われ、日本最古の昇降する可動式の筑後川昇開橋が日本の技術の粋を集めて昭和10年に完成しました…。
     同時に国鉄鹿児島本線(瀬高駅)から、長崎本線(佐賀駅)を結ぶ短絡腺(総延長24k)で『佐賀腺』として開通した……。
     大川市内には筑後若津駅、そして筑後大川駅、東大川駅の三ヵ所の国鉄の駅があり、米や木材、そして大川の家具の輸送等に利便性が向上し、街の発展に大きく寄与しました…。
    戦後の車の普及と共に、国鉄が現在のJRとして民営化された昭和62年(1987年)に佐賀腺は廃線となり、昇開橋はその役割を静かに終えた。
    現在は国指定重要文化財(平成15年指定)となって、佐賀市と大川市が観光の為に保存公開されています…。
   筑後大川駅の開業は昇開橋と共に賑わい、大川のシンボルになっていました…。しかし4年前の満州事変をきっかけに日中戦争[1937年(昭和12年)~1945年(昭和20年)]が勃発して、長期化に伴い1938年(昭和13年)に国家総動員法が施行され、国民徴用令も[1939年(昭和14年)]に発令され、日本は太平洋戦争へと(1934年~)宣戦布告して、第二次世界大戦の勃発につながりました。
    この為大川の家具の生産は、中断する事になります……。
     この様な状況の中、大川の木工関係者は後継者育成の為に、三潴郡大川町向町に、木工の後取り教育として大川工業学校を設立させます。
  大川の木工の為に終戦後の大川の家具の生産再開を考えての事でした。
   戦中の大川の木工所や学校は軍需工場となり、木製の飛行機を製作していました…。又、造船所では、路面電車等を木製で作らせていた。
      [1943年(昭和18年)]
稗田木工所の2代目稗田武夫に召集令状が届きました。
   34歳で、1年数ヶ月の間、満州へ出兵するも、終戦の昭和20年には無事に帰国する。

大川家具の歴史[昭和時代]No.1

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明治時代

に作らせた桐箪笥

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最後の筏流し
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昇開橋の開通

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隅金具無しの桐箪笥(明治の10年の製作)

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本村氏製作の昭和の桐箪笥(3.5尺)

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桐里工房の桐箪笥
DSC_1123.JPG松本(永松)氏製作の昭和の桐箪笥(小袖3.5尺)

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現代の金具

  ーーー新しい波乱の昭和時代ーーー
      昭和元年[1926年]
昭和の幕開けは大正12年の関東大震災の煽りもあり、昭和金融恐慌[1927年(昭和2年)]が発生して日本国内は不況の波が押し寄せます。しかし昭和の新しい時代を向かえた大川は、婚礼家具や桐箪笥を中心に今までのデザインから脱却して新しい技法やすっきりした外観の箪笥を開発していきます。
   従来の榎津箪笥に使われていた、古臭い隅金具を使わずにシンプルな桐箪笥に変わっていきました…。
日本が大陸に侵略の方向に進む中
、大川では半数以上の木工所が桐箪笥を製作しており、大川は婚礼道具の生産地として益々有名になっていきました。大正時代

大川家具の歴史と榎津指物の起こり[大正時代]No.3

ーーー大正時代の木工機械の導入ーーー

   また大川の木工業者の中には広がる需要によって。木工機械の導入が進められます。
     大正11年に、問屋を営んでいた松本由太郎(藪町)が「丸鋸、帯鋸、カッター、手押し鉋盤、自動鉋盤、角のみ盤」等の木工の基本的な機械(道具見たいな機械)が初めて導入された。だがまだ安全性が考慮されておらず、
弟子の中には、ケガをする者も表れたり、作業効率と生産性ひ上がるが、急がせるため、仕上がりが悪くなる事もありました…。
  ーーー大正時代の稗田木工ーーー
  当時の稗田木工所(現在の桐里工房)では、宇一が農業を行い、和一によって桐箪笥の製作が行われていまた…。
   和一は大工道具だけの、製作を貫き、弟子達には「なるべく機械は使うな」と言う指導を行っていました…。
ーーー『1923年(大正12年)9月1日』ーーー午前11:59分ーーー
        マグニチュード7.4の関東大震災が発生する!
         広範囲の火災が発生する!
      
       関東、横浜は壊滅的な被害が広がる!
     この大地震の復興の為の需要も加わり大川の指物業界は全国に知られる様になっていきました。
    そして大正14年いよいよ2代目稗田武夫が、和一の元で修行を始めます。

大川家具の歴史と榎津指物の起こり大正時代No.2

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ーーー大正時代の仲買人、問屋業者と小売店ーーー
この頃になると、指物大工(生地師)が作る榎津箪笥は、何も塗装をしていない、白木の状態で(生地仕上げ)仕上げられた箪笥を、仲買人や問屋業者が買い取って、塗装と金具打ちの仕上げを行っていた。
各地での博覧会や品評会にはそれらの大川町の有力問屋が出品していた為に
、指物師や錺金具師の名前が出る事は殆ど無かったのです。
町の有力問屋業者は腕の良い指物大工(生地師)を選んで、造りの良い箪笥を買い入れた。(生地のまま仕入れる為に品物の優劣が分かりやすく、選別が厳しかった)
その為に職人同士の技の切磋琢磨によって、大川の技術力が高度化していきました。
大正時代の問屋には
            ◎中島忠五郎商店(長町)
            ◎松本由太郎(榎津)
            ◎中島佐助、佐八商店(榎津)
            ◎まる徳家具(籔町)
            ◎肥前屋(庄分)等があった。
 
 

大川家具の歴史と榎津指物の起こり[大正時代]

 ーーー大正時代の大川鉄道とはーーー     『大川には西鉄大川駅があった』No.1

大正時代の幕開けの[1912年(大正元年)12月30日]大川鉄道が、開業した…。
今の大善寺駅から大川市(大川町)の西鉄大川駅の間を結んでいた西日本鉄道(西鉄)の鉄道路線ですが、その開業の目的は、旅客の他に城島や大川で生産される酒や、大川の家具、畳表等の貨物輸送が主な目的であった…。
この鉄道開通により、大川指物の販路も、輸送範囲も格段に広がりました。
ーーー大正時代の大川指物ーーー
大正2年(1914年)第一次世界大戦が勃発、ーーー
この大戦時の四年間、及びその直後は日本中に好景気が沸き上がりました。大川の指物業界も、その好景気の恩恵を受けて、多くの家具の販売店が登場しました。
しかし大正9年にもなると、今度は戦後の不況が押し寄せ、日ごとに不況感が高まっていきました。
しかしこの様な状況の中、大川指物同業組合は、更なる努力を重ねて、品質の向上に努め、不況の波を乗り切る為の販売先の開拓や榎津指物のPRに乗り出します。
各地で開催される博覧会や、共進会、品評会等に、主な業者(問屋)の自信作の出品を積極的に進め。榎津指物の宣伝に尽力しました…。
この為に、近隣市町村に販路が広がり、大川鉄道の貨物輸送も手助けとなって、業者数もその従業員数、生産高も、共に好調な成長を続けて、この大正時代中期には、更に品質を向上させた榎木箪笥は、最盛期を迎える事になります。

大川家具の歴史と榎津指物の起こり

明治時代中期[明治22年(1889年)]

ーーー大川木工の(榎津指物)の発展のきっかけーーー
明治22年(1889年)には、 町村合併により大川町が誕生して、木工関係者が町全体の四分の一を占めるほどになりました。
この発展の原因は、塗装方法や木工品製作の基本となる機械の導入と進歩等の技術の発展の他に、材料の木材が十分に確保出来た事と、家具の販売先が広がった事が上げられます。
明治28年、稗田松次郎(武夫の父)とユミ(武夫の母)の間に長男の宇一が、1年後に和一が産まれました。
明治時代後期[明治42年(1909年)]
ー大川指物同業組合が結成されるーー
明治の後期になると榎津指物技術も進歩してより精巧な品物が出来る様になり、家具の製作販売力も伸びて続け、指物師の数も増えていきました。
この頃の大川町の大工には異業種によって呼び名が分けられる様になりました。
先ずは舟大工に屋大工、建具、組子大工、指物大工に宮大工、彫物師、その他に「桶」や「おひつ」等を作る詰物大工、臼や大鉢や器類を作るくり物大工と呼ばれて、殆どが半農半工によって職人達は腕を振るっていました…。
又、この頃に材料問屋が木材の手配をして、木挽き職人を雇って乾燥まで行っていた。

桐里工房の台湾での展示会

DSC_1473.JPGDSC_1489.JPGDSC_1469.JPG桐里工房の創作桐家具を海外の台湾にて発表する機会が出来ました。

台北SOGOと台南三越、そして高雄の三光三越百貨店の三ヵ所にて、販売を行います。
台北SOGOと、台南三越では好調に推移しています。️…。
最後は、一番台湾らしさが残る高雄にて、頑張っています。
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桐里工房の台湾での展示会

DSC_1473.JPGDSC_1489.JPGDSC_1469.JPG

桐里工房の創作桐家具を海外の台湾にて発表する機会が出来ました。

台北SOGOと台南三越、そして高雄の三光三越百貨店の三ヵ所にて、販売を行います。
台北SOGOと、台南三越では好調に推移しています。️…。
最後は、一番台湾らしさが残る高雄にて、頑張っています。
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桐たんすの桐里工房の出展

DSC_1069.JPGDSC_1053.JPGDSC_1025.JPGDSC_1063.JPG新宿の小田急百貨店において九州。沖縄展が始まりました。

桐里工房は個展での出展になります。
毎年二回の新宿での個展はかなりの反響で多くのお客様が御覧頂いております。