桐たんすのリメイク、リフォーム、

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福岡県吉井町のK様からご注文されていた桐たんすのリメイクですが、おそらく江戸時代後期に大川で製作されたアンティークな4.5尺(幅1350㎜)の桐たんすでした。

高さも高く(1400㎜)て、移動が大変でした。
こんな古い桐たんすは、やはり痛みがひどく、かなりのダメージがありました。でも、K様はどうしても思い出がありますので形見として残したいとの事でした。
そこで、K様の御意向をお聞きしたところ、玄関先とリビングに置きたいとのご意見でしたので、一本立ちだったこの桐たんすを2つに切り分け、下の方はアンティーク仕上げの時代チェストにデザインしました。
一番下の引き出しは、Wihiの本体やルーターを仕舞える様に、裏壁板にはコンセントの穴を開けて、引き出しは前開き戸に改造しました……。
金具は黒いOkawa..storeの時代金具にして、正月に里帰りされるアメリカの娘さんご夫婦に喜んで貰えるように和家具モダンにデザインしました。
又玄関に置くローチェストは古代桐の仕上げにリノベしました。
更に天板にはブラックオールナットを使用して、飾ったり座ったり出来る様にしました。
機能性もあり、デザインも美しい現代にマッチした桐タンスのチェストに変身して甦りました。

大川家具の展示会『FF展』

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大川家具、秋のFF展が今日から始まった。

大川産業会館には、全国の家具小売店や百貨店バイヤー、建築業者やデザイナー等が全国から来場頂いています。
又、大川市が行っている、猫家具ラボも展示してあり人気者になっています……。

モダン桐タンス、お洒落な和のモダン

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新しい令和の時代を記念してデザインされた伝統的なモダン桐たんす『令和の風』が誕生しました。
伝統的な桐箪笥の伝統技法を使って創られた新しいモダンな総桐の桐タンスです️…。
——-桐里工房(桐工房)のモダンシリーズです———

大川家具の歴史と榎津指物の起こり15 ーー職人の街、木工の街、令和の大川ーー

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大川家具は、中小零細の各木工所によって守られて来ました。

大川の最盛期とは戦後という異常な時代に翻弄され、その与えられた量産家具を生産する事で、戦後復興の役割を果しながらも、社会に貢献し、多くの人々のインテリアに対する消費を満足させる事で、大川にもたらされた繁栄だったと考えられます。
もう2度と来ることのない虚像の最盛期に、訣別して大川家具は令和という新しい時代に舵を取り直して新たな船出を向かえる事になります。
産業家具と、榎津指物の流れをくむ大川伝統工芸指物家具の二つの顔を持つ大川家具は、更に時代に合わせた技術を磨き、後継者を育成し、魅力的なデザインの作品を開発して、此れからも健康的で多くの人々に愛される日本らしい大川の家具を作り出して行くことが、新しい大川に与えられた指命だと考えています……。
令和元年、本来の職人の街、木工の街、そして本当の大川の姿を取り戻して、新しい時代への挑戦を、皆様と一緒なって、ある意味楽しみながら進めて行けたらと望んでいます……。

大川家具の歴史と榎津指物の起こり14 ーー戦後の大川家具の急成長ーー

終戦後の異常な時代背景の中で、日本人の生活様式は大きく変わって行きました。
家具の洋風化が進み、ダイニングテーブルセットに洋食器棚、そしてリビングセットや洋風にデザインされた婚礼セット等の需要が一気に高まり、家電と共に作れば作る程売れて行く時代でした。
特需景気に沸き立つ中で、大川の一部の職人や、木工所の経営者は、大きな木工機械の進歩により、量産体制の工場を建設して、生産性重視の方向に切り替えてゆく者も出てきました。
一方、本物志向の職人達は自分を見失う事なく、なるべく機械を使わないで手作りの技術を大切に守り、引き継ぎ、独り一品製作を、コツコツと頑固に貫き通していました。
しかし昭和40年代になると、時代は量産方式に傾いていきます。
1週間に1セットしか出来なかったのが、10セットになり、100セットになり、やがては200セット~300セットもの生
産が可能になっていきました。
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家具の工業生産化を進める、大学の講師達は「もう、此れからの大川には、
ノミもノコも、鉋もいらない、トヨタ生産方式を家具の生産に導入して職人を必要としない、機械のライン工場にして、ロット生産を更にすすめる。」と教授され、大川家具の工業団地を作って、量産体制を整えていくという方向性を唱えていました。
大川の小さかった木工所の一部の事業者は、株式会社となり大工場の社長に就任して、利益を上げる事が最大の目的にする様になっていきました。
又、大川の外部からも大川にやって来て工場と機械設備を導入出来れば、安易な量産家具が作れる様になり、市外の人々が大川で独立開業を行う事業者が増えて来ました。
この為大川は過去最高の、生産高、出荷高、事業者数を記録的に伸ばしていきました。
やがては、戦後も終わり、日本人は、身も心も豊かになり、文化性も取り戻し、人々の暮らしも落ち着いていきました。
室内は家具に溢れ、新しい家具を置くスペースもない様な状態の家庭が増えてきます。
そして合板ばかりで作られた不健康な家具に囲まれて過ごしている事に気付きます。
新築の家には、ウォークインクローゼットが付くようになると、先ずは習慣から生まれた婚礼家具のセット物が姿を消します。
又、後進国のコピー製品が日本に輸入されて、量産品は徐々に過剰生産になっていきました。
そこに1991年(平成3年)3月から始まったバブルの崩壊によって、家具小売店の売り上げの低迷で、大川家具の出荷高の落ち込みに繋がっていきました。

閉店が決定した相模原ISETANでの桐里工房

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今年の9月で閉店が決定した相模原ISETAN!……。

只今、『大九州展』が開催中です…。
桐里工房は焼桐箪笥を中心に桐のベッドや囲炉裏テーブルと桐の椅子、他に創作桐家具、桐の御仏壇を数点出展しています…。
お客様の入店はいつもより多く、売り上げも好調な展開になっています。
特に、お客様の注目になっているのは、桐里工房の殆んどの作品に興味深く御覧頂いて、販売に繋がっています…。
明日から後半に突入します。

大川家具の歴史[昭和時代]No6終戦後編

 ーーー座の生活から、

                             椅子の暮らしへーーー
  畳の間が少なくなり、ダイニングキッチンやリビングルームに変わる事で、家具のデザインは一変して行きます……。
  ◎お茶の間のちゃぶ台はーーーダイニン                            グテーブルへと、
  ◎水屋はーーーー洋風食器棚へ、
  ◎長持ちはーー夜具入れ、洋服箪笥へ、
  ◎和茶棚や飾り棚はー洋サイドボード
  ◎裁縫台はーーーーミシンへ
  ◎座の鏡台はーーーードレッサーへ
  ◎嫁入り道具はー洋風の婚礼セットへ       3点セット(1)和ダンス
                       (2)昇りタンス
                       (3)洋服箪笥
   他に鏡台(ドレッサー)、下駄箱
            
  
                                    

大川家具の歴史[昭和時代]戦後編No.5

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昭和25年位に発売された三輪軽トラダイハツミゼット

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昭和27年、筑後川での筏流しが夜明けダムの建設によって終わりとなる。
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戦後の桐箪笥
ーー第二次世界大戦後の異常な大川ー
  戦争での敗戦は、日本の住宅や設備、文化や人間の心までも、全てを破壊して終結したが、全国の戦災復興や炭鉱住宅等の需要がいっせいに始まり、大川には異常な木工ブームが、訪れる事になる。
  敗戦国のどん底から、這い上がる為には、日本人が平和的な経済立国を再構築するための夢を描く事が必要でした。
    全ての住宅や家具は破壊され何も無い状態ですので、誰もが貧しく取敢えずの応急措置を至急行わないといけない状況でした……。
   住宅は、質はあまり重視しない、間に合わせの文化住宅や集合住宅が、普及して、家具も今までの純和風ではなくて、洋風的な安価な家具が必要とされる、異常な時代背景の中で、大川に与えられた使命は量産家具の製作でした。
   大川の家具作りは、一本でも多く作る事が優先されましたので、作れば作るだけ、まとめて売れて行きました。
     日本の戦災復興は目覚まし行きました早さで進み、やがては高度成長期を向かえる事になります……。
  昭和24年(1949年)大川は国の指定の『重要木工集団地 』に指定され(旭川、高崎、東京、荒川、新潟の加茂、和歌山と共に)、現在の産業の基盤が確立されました。

大川家具の歴史[昭和時代]No.4

前項からの続きーーー

   これらの部品(主翼、尾翼)、軍の強度検査で『木製飛行機の強度で日本新記録』と評価され、ここでも大川の木工技術の高さが日本一と軍需省から労いの賞状が届いた。
   工場は主翼班、尾翼班等、10班に分かれて作業をする班制度を取っていた。大川の木工技術者や大川工業学校(後に筑西工業学校とも呼ばれていた)の学生などや女性も加わり常時700人がいて、この中に桐里工房の従業員であった、故黒田氏がこの事業に大川工業学校の生徒として動員されていたと本人から聞いていました。
  この他に、戦時中の大川には、大川航空(株)、古賀航空機製作所、八大航空機製作所、勤労者航空機製作所など、5つの飛行機製作所がありました…。大川の木工技術者を亡くさないためと云う事も考えられます。
    この飛行機の製作によって考案された、各班に分かれて作業を行う生産方式は、戦後の量産家具の製作に取り入れられます。
   大川の木工関係者のたくましさが
感じられます……。

大川家具の歴史[昭和時代]No.3

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ーーーー戦時中の大川ーーー
『大川で木製飛行機の製作』
          [品質日本一]軍の評価
     ーー練習機『白菊』の主翼製作ーー
大川で戦闘機の木製飛行機を製作していたのは、大川市酒見中原にあった「旭航空機製作所」は1943年(昭18年)12月に設立された。
   場所は、中原公民館の近くにあり、巨大な平屋建物が密集していた。
地元の材木商が、戦況報告会で飛行機が足りない事を知り、資本を投じて設立した……。
   当時は成人男性の軍需工場への徴用が多く、大川に木工飛行機の工場を作る事は大川の木工技術者の「徴用逃れ」との側面もあったとみられる。
    この工場で作られた部品(主翼と尾翼)は春日市の九州飛行機製作所にて機体を組立てていた。
   1944年の3月に生産を初めて、わずか15日の3月15日には初号機に用いる主翼等が完成した……。