大川家具の歴史[昭和時代]No.4

前項からの続きーーー

   これらの部品(主翼、尾翼)、軍の強度検査で『木製飛行機の強度で日本新記録』と評価され、ここでも大川の木工技術の高さが日本一と軍需省から労いの賞状が届いた。
   工場は主翼班、尾翼班等、10班に分かれて作業をする班制度を取っていた。大川の木工技術者や大川工業学校(後に筑西工業学校とも呼ばれていた)の学生などや女性も加わり常時700人がいて、この中に桐里工房の従業員であった、故黒田氏がこの事業に大川工業学校の生徒として動員されていたと本人から聞いていました。
  この他に、戦時中の大川には、大川航空(株)、古賀航空機製作所、八大航空機製作所、勤労者航空機製作所など、5つの飛行機製作所がありました…。大川の木工技術者を亡くさないためと云う事も考えられます。
    この飛行機の製作によって考案された、各班に分かれて作業を行う生産方式は、戦後の量産家具の製作に取り入れられます。
   大川の木工関係者のたくましさが
感じられます……。