明治時代中期[明治22年(1889年)]
ーーー大川木工の(榎津指物)の発展のきっかけーーー
明治22年(1889年)には、 町村合併により大川町が誕生して、木工関係者が町全体の四分の一を占めるほどになりました。
この発展の原因は、塗装方法や木工品製作の基本となる機械の導入と進歩等の技術の発展の他に、材料の木材が十分に確保出来た事と、家具の販売先が広がった事が上げられます。
明治28年、稗田松次郎(武夫の父)とユミ(武夫の母)の間に長男の宇一が、1年後に和一が産まれました。
明治時代後期[明治42年(1909年)]
ーー大川指物同業組合が結成されるーー
明治の後期になると榎津指物技術も進歩してより精巧な品物が出来る様になり、家具の製作販売力も伸びて続け、指物師の数も増えていきました。
この頃の大川町の大工には異業種によって呼び名が分けられる様になりました。
先ずは舟大工に屋大工、建具、組子大工、指物大工に宮大工、彫物師、その他に「桶」や「おひつ」等を作る詰物大工、臼や大鉢や器類を作るくり物大工と呼ばれて、殆どが半農半工によって職人達は腕を振るっていました…。
又、この頃に材料問屋が木材の手配をして、木挽き職人を雇って乾燥まで行っていた。