大川家具の歴史と榎津指物の起こり14 ーー戦後の大川家具の急成長ーー

終戦後の異常な時代背景の中で、日本人の生活様式は大きく変わって行きました。
家具の洋風化が進み、ダイニングテーブルセットに洋食器棚、そしてリビングセットや洋風にデザインされた婚礼セット等の需要が一気に高まり、家電と共に作れば作る程売れて行く時代でした。
特需景気に沸き立つ中で、大川の一部の職人や、木工所の経営者は、大きな木工機械の進歩により、量産体制の工場を建設して、生産性重視の方向に切り替えてゆく者も出てきました。
一方、本物志向の職人達は自分を見失う事なく、なるべく機械を使わないで手作りの技術を大切に守り、引き継ぎ、独り一品製作を、コツコツと頑固に貫き通していました。
しかし昭和40年代になると、時代は量産方式に傾いていきます。
1週間に1セットしか出来なかったのが、10セットになり、100セットになり、やがては200セット~300セットもの生
産が可能になっていきました。
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家具の工業生産化を進める、大学の講師達は「もう、此れからの大川には、
ノミもノコも、鉋もいらない、トヨタ生産方式を家具の生産に導入して職人を必要としない、機械のライン工場にして、ロット生産を更にすすめる。」と教授され、大川家具の工業団地を作って、量産体制を整えていくという方向性を唱えていました。
大川の小さかった木工所の一部の事業者は、株式会社となり大工場の社長に就任して、利益を上げる事が最大の目的にする様になっていきました。
又、大川の外部からも大川にやって来て工場と機械設備を導入出来れば、安易な量産家具が作れる様になり、市外の人々が大川で独立開業を行う事業者が増えて来ました。
この為大川は過去最高の、生産高、出荷高、事業者数を記録的に伸ばしていきました。
やがては、戦後も終わり、日本人は、身も心も豊かになり、文化性も取り戻し、人々の暮らしも落ち着いていきました。
室内は家具に溢れ、新しい家具を置くスペースもない様な状態の家庭が増えてきます。
そして合板ばかりで作られた不健康な家具に囲まれて過ごしている事に気付きます。
新築の家には、ウォークインクローゼットが付くようになると、先ずは習慣から生まれた婚礼家具のセット物が姿を消します。
又、後進国のコピー製品が日本に輸入されて、量産品は徐々に過剰生産になっていきました。
そこに1991年(平成3年)3月から始まったバブルの崩壊によって、家具小売店の売り上げの低迷で、大川家具の出荷高の落ち込みに繋がっていきました。