大川家具の歴史と榎津指物の起こり15 ーー職人の街、木工の街、令和の大川ーー

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大川家具は、中小零細の各木工所によって守られて来ました。

大川の最盛期とは戦後という異常な時代に翻弄され、その与えられた量産家具を生産する事で、戦後復興の役割を果しながらも、社会に貢献し、多くの人々のインテリアに対する消費を満足させる事で、大川にもたらされた繁栄だったと考えられます。
もう2度と来ることのない虚像の最盛期に、訣別して大川家具は令和という新しい時代に舵を取り直して新たな船出を向かえる事になります。
産業家具と、榎津指物の流れをくむ大川伝統工芸指物家具の二つの顔を持つ大川家具は、更に時代に合わせた技術を磨き、後継者を育成し、魅力的なデザインの作品を開発して、此れからも健康的で多くの人々に愛される日本らしい大川の家具を作り出して行くことが、新しい大川に与えられた指命だと考えています……。
令和元年、本来の職人の街、木工の街、そして本当の大川の姿を取り戻して、新しい時代への挑戦を、皆様と一緒なって、ある意味楽しみながら進めて行けたらと望んでいます……。

大川家具の歴史と榎津指物の起こり14 ーー戦後の大川家具の急成長ーー

終戦後の異常な時代背景の中で、日本人の生活様式は大きく変わって行きました。
家具の洋風化が進み、ダイニングテーブルセットに洋食器棚、そしてリビングセットや洋風にデザインされた婚礼セット等の需要が一気に高まり、家電と共に作れば作る程売れて行く時代でした。
特需景気に沸き立つ中で、大川の一部の職人や、木工所の経営者は、大きな木工機械の進歩により、量産体制の工場を建設して、生産性重視の方向に切り替えてゆく者も出てきました。
一方、本物志向の職人達は自分を見失う事なく、なるべく機械を使わないで手作りの技術を大切に守り、引き継ぎ、独り一品製作を、コツコツと頑固に貫き通していました。
しかし昭和40年代になると、時代は量産方式に傾いていきます。
1週間に1セットしか出来なかったのが、10セットになり、100セットになり、やがては200セット~300セットもの生
産が可能になっていきました。
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家具の工業生産化を進める、大学の講師達は「もう、此れからの大川には、
ノミもノコも、鉋もいらない、トヨタ生産方式を家具の生産に導入して職人を必要としない、機械のライン工場にして、ロット生産を更にすすめる。」と教授され、大川家具の工業団地を作って、量産体制を整えていくという方向性を唱えていました。
大川の小さかった木工所の一部の事業者は、株式会社となり大工場の社長に就任して、利益を上げる事が最大の目的にする様になっていきました。
又、大川の外部からも大川にやって来て工場と機械設備を導入出来れば、安易な量産家具が作れる様になり、市外の人々が大川で独立開業を行う事業者が増えて来ました。
この為大川は過去最高の、生産高、出荷高、事業者数を記録的に伸ばしていきました。
やがては、戦後も終わり、日本人は、身も心も豊かになり、文化性も取り戻し、人々の暮らしも落ち着いていきました。
室内は家具に溢れ、新しい家具を置くスペースもない様な状態の家庭が増えてきます。
そして合板ばかりで作られた不健康な家具に囲まれて過ごしている事に気付きます。
新築の家には、ウォークインクローゼットが付くようになると、先ずは習慣から生まれた婚礼家具のセット物が姿を消します。
又、後進国のコピー製品が日本に輸入されて、量産品は徐々に過剰生産になっていきました。
そこに1991年(平成3年)3月から始まったバブルの崩壊によって、家具小売店の売り上げの低迷で、大川家具の出荷高の落ち込みに繋がっていきました。