大川家具の歴史と、榎津指物の起こり

江戸時代後期の幕末の頃の大川、榎津指物は舟大工の高度な技術力が基本になって、進歩していった為に、質素な表向きと堅固で板厚みも出来るだけ厚く仕上げ、頑丈な作りが好まれました。又、和服もお洒落着が流行して華やかな男女の着物が定着していました。
ところが、九州での気候は高温多湿な為に大切な着物にカビが生えてしまう為に、どうしても桐箪笥が必要でした。
この為早くから大川では桐箪笥が独自の技法で作られていました。
この頃の田ノ上初太郎(二代目嘉作)製作の、現在も残っている桐箪笥の作りを見てみると、大正、昭和初期に造られた桐箪笥と同じ技法になっている…。
大川独特の桐箪笥 は胴板(ガケ板)と棚板の組み手に前蟻組と後蟻組が使われている事が他国と違う手法になっているのである。
この事から大川の桐箪笥は他国の影響を余り受けずに進化したと考えられる…。
又、箪笥の呼び名も幅6尺の箪笥を一間物、幅5尺は八合物と呼び、3尺巾は五合物とよんでいた。
この頃の大川で、榎津指物で製作された物は桐の箱物各種、桐箪笥、桐の手あぶり火鉢(角形)、三味線箱や書棚、飾り棚、文箱、文机、座鏡台、座卓、帳ダンス、手元箪笥等、背が低いものが主に造られていました…。
 
ーーー後に続くーーー